「義経」を読む。
ようやく長期の休みに入りました!
せっかくなのでたくさん本を読みましょう。
と、言うことで読んだのが、
司馬遼太郎の、「義経」。
言わずと知れた源義経。
亡き父、源義朝の仇を討つため、
平家を滅ぼす。
栄光。
その裏で、源頼朝の毒物になり、
忍び寄る破滅。
光と影が描かれる話。
軍事にかけては天才。
政治にかけては鈍感。
純粋に人を思う心は、
英雄にはなれても、
歴史を動かす支配者にはなれなかった(義経はそれを望んではいないけれど)。
頼朝は、
支配者だった。
その支配に差支えがある存在は、
消し去らねばならなかった。。。
最後に、
義経の首が鎌倉に運ばれてきたとき、
「悪はほろんだ。」
と頼朝は言う。
悪とは何だろうか。
正義とは何だろうか。
頼朝にとっては、
正義は幕府による支配を盤石なものにすることであった。
それを脅かす(かもしれないと判断した)義経は悪であった。
ただ、
義経にしてみればどうであろうか。
義経にとっての正義は、
父義朝の仇を討つこと、
兄頼朝のために戦うこと、
だったろう。
では、悪とは。。
つまり、
義、
ここで語られる、
正義や悪というのは、
当事者の都合で変わってしまうということだろう。
歴史はその繰り返しで築き上げられてきた。
が、
これで良かったのか、
この先もこれで良いのかはよく考えなくてはいけない。
なぜなら、
その歴史は、
平氏、源氏の争い。
源氏の血の争いを生んだ。
いや、
そもそも、
歴史は戦争の繰り返しだ。
ここからはちょっと真面目な話。
個人的な思いなので悪しからず。
実は、
当事者の都合で変わらない正義もある(と思う)。
それは、
手を差し伸べること。
困っている人に、
自らを犠牲にしてでも、
手を差し伸べること。
故、やなせたかしさんが、
あんぱんまんを通して、教えてくれたことである。
ひもじい思いをしている人に、
自分の顔を食べさせる。
その正義は、
当事者の都合でひっくり返らない。
なるほど、その通りだと思う。
歴史は、繰り返してはいけない。
ひっくり返らない正義で、
平和を築かなくてはいけない。
だとしたら、
今日本が舵をきろうとしていることは、間違っていると自分は思う。
今まで、
日本がしてきたことは、
いくつか矛盾はあるものの、
「ひっくり返らない正義」が軸にあったように思う。
が、
これからは違う。
もしもの事態があれば武器を使う。
そのもしもって何?
そもそも、判断することがおかしい。
正義は、判断を要するものではない。
本来ひっくり返らないのだから。
判断すると、正義は当事者にのみ通用するだけのものになり、ともに悪も生む。
そういうことだ。
つまり、
頼朝が、
義経を敵としたことと何ら変わりがない。
当事者の都合で、
悪を滅ぼす(言い分としては、防ぐだと思うけど)。
歴史の繰り返しに足を突っ込もうとしているんだ。
そう思う。
はい、
まぁ、
すんごく深読みしたわけですけど。
「義経」
の物語自体は、
面白いです。
盛者必衰。
栄枯盛衰。
そこに美しさ、
もののあわれを感じるのは、
確かな事実ですね。
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